海外の学生が gap year の間に新たな目標を見つけ、予定していた大学・大学院や企業に戻ってこないというケースは多々ある。そして、それはそれで自分の進むべき方向性が定まったという意味で、双方にとってハッピーな結論と言えるだろう。
だから日本での gap months も同じだと思うのだ。すわなち「留学しない」という決断をする最後のチャンスなのだと。昔と違って少数のエリートのみならず、誰も彼もが留学できる現在である。留学しても就職できるだろうか?帰国して居場所を再びつくれるだろうか?そういう不安があればなおさら、国内進学・就職というのは、極めて合理的な判断だと思う。
だから日本での gap months も同じだと思うのだ。すわなち「留学しない」という決断をする最後のチャンスなのだと。昔と違って少数のエリートのみならず、誰も彼もが留学できる現在である。留学しても就職できるだろうか?帰国して居場所を再びつくれるだろうか?そういう不安があればなおさら、国内進学・就職というのは、極めて合理的な判断だと思う。
留学してからはそれなりに辛いこともあるし、辛そうにしている他の留学生を見るなんてざらである。昨年経済学Ph.D.に入学してきた一人も、勉強についていけず、かつアメリカ生活にも馴染むことができず、結局半年で大学院を去った。
それは彼にとっては賢明な意思決定だったように思うが、恥やプライドといったものが邪魔するのだろう、そこまで思い切った決心をする人は少ない。むしろ、出口の見えない迷路に嵌って抜け出せず、数年もそこにとどまる可能性の方が高かったりするわけだ。2年間の修士課程ならまだしも、5年も続く博士課程は長い。だからこそ、留学しないという決断はとても大事なものだと、僕は真剣に思っているのである。

自分の身で体験するまでは実感が湧きにくいものだが、少なくとも以下の3冊は留学する前から読み返していてよかったと思えるもの。以前にも詳しく書いたが、極めてポジティブでアクティブに見える彼らから学ぶべきは、その背景にある、同僚との苛烈な競争、アカデミアとの圧力と格闘、そしてアメリカの社会・文化・制度もろもろとの終わりなき葛藤だ。
石井裕が繰り返し唱えるように「屈辱感を、前に向けて走り続けるエネルギーに変換する」ことこそが、そんな過酷な競争を生き抜く唯一のカギなのだろう。

彼らはそんな競争を闘い抜き、勝ち残っているからポジティブなことも言えるんだという指摘はあろう。であれば、留学のマイナス面がリアルな迫力で迫る以下の本が参考になる。遠藤周作の『留学』は、フランスへの留学生がその「石畳の厚さ」に跳ね返され、精神も健康も病んでいく話だ。
その間、日本の所属大学においてはライバルが出世し、自分の居場所がじわじわと失われていく。エリート街道を歩んでいるはずが一転、人生の坂道を転がり落ちていく物語は、決して古いフィクションと切り捨てずに、むしろ現代にこそ通じるノンフィクションと捉えておく方が賢明だろう。

水村美苗『私小説』は、アメリカ滞在が長過ぎた「私」が、アメリカ社会にも溶け込めず、今さら日本にも帰れず、根無し草のように浮遊する毎日を描いたもの。先に書いたように、経済学のみならずどの専門分野においてもPh.D.課程は長い。卒業を延ばしたりポスドクとして残るという選択肢等を含めればその時間はさらに長くなる。
そして、この「私」のように、日々漂い流されながら過ごしている人も実際のところ周りにいる。それでもやはりプライドやその他の事情が邪魔するのだろうか、一度留学してしまうと、撤退という決断はなかなかできないものなのだ。
だからこそ、留学を考えていたけれど、よくよく検討した結果、行くこと自体を止めましたという意思決定を、僕は最大限に尊重したいと思っているのである。『日本語が亡びるとき』は、そんな孤独なアメリカ生活の中で、日本近代文学とそこでこそ輝く日本語という言語を、唯一つの拠り所としてきた「私」の、心の底からの叫び声のように聞こえてくるのではないだろうか。

それは彼にとっては賢明な意思決定だったように思うが、恥やプライドといったものが邪魔するのだろう、そこまで思い切った決心をする人は少ない。むしろ、出口の見えない迷路に嵌って抜け出せず、数年もそこにとどまる可能性の方が高かったりするわけだ。2年間の修士課程ならまだしも、5年も続く博士課程は長い。だからこそ、留学しないという決断はとても大事なものだと、僕は真剣に思っているのである。

自分の身で体験するまでは実感が湧きにくいものだが、少なくとも以下の3冊は留学する前から読み返していてよかったと思えるもの。以前にも詳しく書いたが、極めてポジティブでアクティブに見える彼らから学ぶべきは、その背景にある、同僚との苛烈な競争、アカデミアとの圧力と格闘、そしてアメリカの社会・文化・制度もろもろとの終わりなき葛藤だ。
石井裕が繰り返し唱えるように「屈辱感を、前に向けて走り続けるエネルギーに変換する」ことこそが、そんな過酷な競争を生き抜く唯一のカギなのだろう。



彼らはそんな競争を闘い抜き、勝ち残っているからポジティブなことも言えるんだという指摘はあろう。であれば、留学のマイナス面がリアルな迫力で迫る以下の本が参考になる。遠藤周作の『留学』は、フランスへの留学生がその「石畳の厚さ」に跳ね返され、精神も健康も病んでいく話だ。
その間、日本の所属大学においてはライバルが出世し、自分の居場所がじわじわと失われていく。エリート街道を歩んでいるはずが一転、人生の坂道を転がり落ちていく物語は、決して古いフィクションと切り捨てずに、むしろ現代にこそ通じるノンフィクションと捉えておく方が賢明だろう。

水村美苗『私小説』は、アメリカ滞在が長過ぎた「私」が、アメリカ社会にも溶け込めず、今さら日本にも帰れず、根無し草のように浮遊する毎日を描いたもの。先に書いたように、経済学のみならずどの専門分野においてもPh.D.課程は長い。卒業を延ばしたりポスドクとして残るという選択肢等を含めればその時間はさらに長くなる。
そして、この「私」のように、日々漂い流されながら過ごしている人も実際のところ周りにいる。それでもやはりプライドやその他の事情が邪魔するのだろうか、一度留学してしまうと、撤退という決断はなかなかできないものなのだ。
だからこそ、留学を考えていたけれど、よくよく検討した結果、行くこと自体を止めましたという意思決定を、僕は最大限に尊重したいと思っているのである。『日本語が亡びるとき』は、そんな孤独なアメリカ生活の中で、日本近代文学とそこでこそ輝く日本語という言語を、唯一つの拠り所としてきた「私」の、心の底からの叫び声のように聞こえてくるのではないだろうか。



2011/04/20(水) | Ryuugaku | トラックバック(0) | コメント(0)