若き経済学者のアメリカEconomics ≫ 「ときには真珠のように」

「ときには真珠のように」

自分で授業を受け持つことで気づいたことがある。それは、授業準備から宿題採点まで、授業「以外」のことで相当時間が取られるということ。自分一人で全部を回すのがこれほど大変とは、見込みが甘かったなぁ。オレにもTAつけてくんないかなぁ~とか、分不相応な願いをしてみたり。

というわけで、なかなか結構な作業量となっているワケである。昨年の講師から教材一式をシェアさせてもらっているので、それはもう感謝感謝である。それがなかったらと思うと、ゾッとするよね。昨年と同様の内容をほぼその通り進めていっているのだが、その流れを確認するだけでも相当の時間が取られる。そう考えると、自分で講義をゼロから設計する場合には、それこそ膨大な作業になるのだと、ようやく体感したワケである。

今回の夏期授業に関して言えば、テキストは既に指定されているし、カバーする範囲も決められている。そういう意味では自由度はゼロ、全くもって面白味に欠けるのだ。いや、そのお陰で大変助かってるんですけどね。でも、もし、もう少しだけ自分でデザインできる自由度があれば、そのエッセンスだけでも取り入れたいと思っていたのが、David Freedman の以下の2冊。著者の思いが濃密に詰まった、味わいのある本だと思う。


Statistics Statistical Models: Theory and Practice


彼の統計学に対する思いは、"Statistical Models and Causal Inference" 所収の "Statistical Models and Shoe Leather" において、より明確に示されている。統計学を学び修め究めながらも、その手法に対しては常に自ら懐疑的な目を向けることを忘れない。統計学の手法、もっと広く言えば数理モデルを用いて何かを明らかにしたとか、原因を突き止めたとかいうのは、言い過ぎではなかろうか。彼はそう警鐘を鳴らす。

自分の手法に対しても健全な批判精神を忘れないこうした姿勢を、真に知的と言うのではないだろうか。それは、「絶対に安全」な技術など、今も昔もそしてこれからもあり得ないのと同様のことなのだと思う。ちなみに、彼が一つの指針とする Snow の研究(コレラ感染の原因究明)は、以前書いたように、「クーリエ・ジャポン」や "Natural Experiments of History" でも取り上げられている。

今は亡き Freedman の文章を読むたびに思い返すのが、「おこがましい」という言葉。極めて英訳しにくいこの言葉を彼の小論から感じ取るというのは、何とも不思議な思いがする。でも彼の、自身の研究手法を見つめるその視線には、そうとしか形容しようがないものを感じるのだ。

僕がこの「おこがましい」という日本語に出会ったのは、中学生のときだったと思い起こす。当時お世話になった医者の本間先生に言われた言葉だ。彼も既にこの世を去っているのだが、死の間際でかけられた台詞が今も忘れられない。側にいた若い医師が懸命な処置を施す中、本間先生は「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」という言葉を遺し、そっと息を引き取った。完璧な手術を行ったその若き医師は泣き崩れたが、それは寿命という、人間としてそして生き物として、あまりにも自然な死だったのである。

そのとき初めて接したこの言葉は、それ以来ずっと僕の頭の隅にある。本間先生が今も生きていれば、「学者が経済の浮き沈みを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね」と、そう言うんじゃないだろうか。僕はそんな思いを抱きつつ、今も経済学を学んでいる。だけど、何を学び、どんな技術を用いようとも、彼が遺してくれた「おこがましい」という言葉と姿勢、それだけは忘れてはならない。本名、本間丈太郎。僕が心の底から尊敬する恩師の一人である。




2011/06/26(日) | Economics | トラックバック(0) | コメント(0)

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