若き経済学者のアメリカBooks ≫ 重松清『十字架』と自殺と「ともだち」の意味

重松清『十字架』と自殺と「ともだち」の意味

ドラマ化された重松清の『とんび』が今シーズン一番の視聴率をとったというニュース。確かにこの父子ドラマは見るものを惹きつける力があるだろう。だけれども、僕が思ったのはそれとは全く別のこと。

読売新聞)TBSは、17日放送した連続ドラマ「とんび」の最終回の平均視聴率が20.3%を記録したと18日、発表した。ドラマは、不器用な父親が息子を愛した30年の物語。原作は直木賞作家・重松清のベストセラー作品。父親・ヤスを内野聖陽、その息子を佐藤健、ヤスの妻を常盤貴子が演じた。





いじめ自殺が大きく報道された今年度、卒業式を迎えるこの時期にむしろ読まれるべきなのは、同じく重松清による『十字架』ではないだろうか。人前で読むことが出来ないほどに、涙が滂沱と流れ落ちる重松作品の中にあって、本書が一段と心に重くのしかかるのは、いじめ自殺という極めて今日的なテーマを選んだというだけでなく、「遺された者」がその後の人生で背負い続ける十字架に深く迫っているからだろう。

あいつの人生が終わり、僕たちの長い旅が始まった。



一連の作品の中で重松が描く世界は、フィクションという舞台を借りた残酷なまでにリアルな日常だ。それは新興住宅街におけるご近所付き合いだったり、リストラに慄く父親の背中だったり、子供の反抗期に悩む夫婦の姿だったりと、多くの場合は不安を抱かせつつも、最後には小さな希望が添えられて終わることが多い。

しかし、本書では他作品に見られるような(ときに滑稽な)家庭内の喜怒哀楽は影を潜め、それとは対照的に、学校内にはびこる無表情・無感情・無関心・無関与に焦点が当てられる。それも「いけにえ」「見殺し」という見出しとともに。

翌朝の教室は異様な雰囲気に包まれていた。フジシュンが自殺したということは、朝のホームルームが始まる前に噂話で校内に広まっていた。(中略)だから、不思議なほどショックはなかった。衝撃は確かにあっても、それは決して不意打ちではなかった。誰の胸にも予感はあった。このままいじめがつづくと、もしかしたら、いつか・・・と誰もが思っていた。でも、誰もいじめを止めなかった。フジシュンが死んでしまってもかまわないとは、僕たちの誰も思っていなかった。でも、なにがあってもフジシュンを死なせてはいけない、とも思っていなかった。



そういう「ともだち」なのか単なる「クラスメイト」なのか、その他にどんな呼称がしっくりくるのか判断できない希薄な人間関係を前に、そして「フジシュンのことは絶対に忘れません」「いじめはよくありません」といった、反省文に綺麗に並べられた無味乾燥とした言葉を前に、雑誌記者の田原は怒りを露わにし、生徒たちに直接ぶつける。

「なあ、同級生が死んだんだぞ。しかも自殺だ。おまけに、原因がいじめだ。動揺しないわけがないだろう?動揺しないのって、おかしいだろう?そう思わないか?動揺すればいいんだよ。しなきゃだめなんだよ。なあ、そうだろ?人間っていうのは、身近な奴が死んだら動揺するようにできてるんだよ。ショックを受けて、どうしていいかわからなくなって、悩んで、苦しんで、悲しんで・・・その悩み方や苦しみ方を教えるのが、学校じゃないのか?それがおとなの役目なんじゃないのか?」



田原はこうやって、「遺された者」たちに対し、無感情や無関心の「無」を取り払って、遠慮無く感情をあらわせ、逃げずに真正面から関われ、というメッセージを送り続ける。しかしそれは多くの生徒には響かず、学校や大人にも全く届かない。その言葉が胸に刺さった極少数の生徒は一方で、これからの人生で十字架を背負って歩くという意味をようやく知る。「僕たちの長い旅」は始まったばかりであり、そして永遠に終わることはない。






2013/03/20(水) | Books | トラックバック(0) | コメント(0)

«  |  HOME  |  »

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL
http://theyoungeconomist.blog115.fc2.com/tb.php/566-78ba2b96
 |  HOME  |