曇天が続き、気分が重い。でも気が晴れないのはそれだけではない。中間試験の結果だ。たかが試験、されど試験。結局、
1~2月の遅れを取り戻すことができないまま、試験を終えてしまった。その結果は本当に素直なものだと思う。授業をきちんと理解して付いていった者は、それだけの結果を残し、そうでないものは・・・まぁそんな結果だ。
これはもう一度態勢を立て直さないとマズイ。このままでは、すぐに期末試験がやってきてしまうという不安を覚える。この危機感は一年を通して初めてのものであり、最初の試練だ。自分の勉強方法を見直すという意味で、成績上位の彼らにどのように勉強しているのかを聞いてみると、異なる点が2つあるように思えた。
一つ目は、彼ら彼女らが極めて授業内容に忠実だということだ。いや僕だって忠実なんだけどね。そう、彼らの多くは、授業で扱ったこと以外の内容に手を広げたり、同じ内容であっても他のテキストを参考にしたりしない、という傾向が強いと感じる。教授のレクチャーノートがあれば、それだけで勉強している。僕は昔から、基本テキストを読み終えたら、他の参考書ではどう言及されているかを知り、応用問題まで抑えておきたい、という意識が強くある。しかし、今回の結果で明らかになったのは、授業内容に対する明らかな理解不足だ。試験内容が難しかったかと聞かれれば、決してそんなことはないと言える。むしろ、授業に沿ったものだ。基本的内容をきちんと理解し、プラス少しばかりの応用力があれば十分に回答できるものだったのだ。残念ながら授業のその先を考えるのは、僕にはまだ準備が足りなかったようだ。上を見るあまり背伸びをし過ぎて、足元がお留守ですよ、という教訓なのだとしっかりと受け止めておきたい。
二つ目は、授業や宿題の回答で分からないことがあると、彼ら彼女らは積極的に教授に質問に行っている、ということだ。クラスメイトに聞けば済むかな、と僕だったら思ってしまうような内容であっても、聞きに行く。忙しそうにしている教授の研究室を訪れるのは、オフィスアワーであっても少しばかり勇気がいる。しかし彼らのそんな姿勢に、大事なことを気づかされたように思う。だいたい、「ここが分かりません」なんて率直に聞けるのは一年生のうちだ。二年、三年と学年が進むにつれ、当然だが基礎的なことはどんどん聞きづらくなる。だったら一年生の今のうちに聞いておこう。それができるのが特権だし、そうすべきなのだ。そうだそうだ、この勢いで研究室に行っちゃえ、GO!
と、気分が重いのを隠しつつ、教授のところに行ってみる。すると何というか、想像していた以上にオープンマインドに話を聞いてくれ、それが何より有り難かった。そもそも、本当に聞きたいことというのは、宿題3の問題1(b)の解説が分かりません、などということではないのだ。いや確かにソレも分からないんだけど・・、それ以上に悩んでいるのは、曖昧模糊とした不安なのだ。この問題も分からないようじゃダメなんじゃないかという不安、自分のやり方/考え方が否定されたような不安、この先やっていけるのかという不安、そういったものが合わさって自分の中で、不安・不満・不信が膨れ上がっていたのだ。
教授と話す中で感じたのが、大学院生が抱えるこうした漠とした不安を、教授自身がよく理解しているということだ。それは自身の経験から認めているものかも知れないし、他の多くの大学院生を教え指導してきた経験から分かったものなのかも知れない。そしてこうした不安感やプレッシャーに押し潰されそうになり、自ら大学院を去る学生がそれなりの数いるということも、実感として理解できたように思う。Ph.D.の道のりは長く、次の不安やさらに大きな不信に直面することは容易に想像できる。そのときにセルフマネジメントできるかどうか、それが極めて重要だと思うに至った。そんな3月、春はまだ遠い。